岡田 有希子。 サンミュージック波乱の50年 引きずった岡田有希子の死「お父さんの一言に救われた」

岡田有希子 Mariya’s Songbook|復刻版「贈りものⅢ」

岡田 有希子

岡田有希子プロフィール 1967年8月22日(没年:1986年4月8日) スター誕生! いつまでも、一緒にいてね。 ステキの国からやって来たリトル・プリンセス 1984年4月21日(ファースト・デイト) 1984年日本レコード大賞最優秀新人賞 1984年日本歌謡大賞優秀放送音楽新人賞 1984年FNS歌謡祭最優秀新人賞 1984年日本テレビ音楽祭最優秀新人賞 1984年全日本歌謡祭最優秀新人賞 1984年メガロポリス歌謡祭最優秀新人ダイヤモンド賞 1984年ヤング歌謡大賞・新人グランプリ 1984年新宿音楽祭金賞 1984年銀座音楽祭グランプリ - 1984年音楽新人賞 - - 0回 代表曲 ()内はオリコン最高順位 84年:-Dreaming Girl- 恋、はじめまして(7位) 85年:二人だけのセレモニー (4位) 86年:くちびるNetwork(1位) 他多数 ホームページ 岡田有希子のデビューについて 岡田有希子は、中学3年でアイドルになるという計画を立て『スター誕生! 』に出場し見事予選を突破、しかし親の猛反対に遭って本来進出するべき決戦大会に出場することができませんでした。 この抗議のため岡田有希子は食事もとらず部屋に閉じこもり、困り果てた両親はある交換条件を提示します。 それは、 学内テストで学年1位 模擬試験で学内5位 地元で最高レベルの進学校である向陽高校への合格 と、かなり無謀なもでした。 しかし岡田有希子は以上の条件を全てクリアし、1大会遅れで特別に出場した『スター誕生! 』決戦大会で見事合格するのでした。 ちなみにこの『スター誕生! 』決戦大会は最後の決戦大会だったので、タイミングが少しでもズレていたら岡田有希子はアイドルとしてデビューできなかったかもしれません。 新人賞を総なめ 所属事務所も決まって上京することとなった岡田有希子は、結局苦労して入った地元の高校をやめ堀越学園に編入し、芸能人としての道を歩みだします。 (高校の編入については、そもそも親が提示した交換条件に矛盾があった) 翌年の1984年には、同じ事務所の松田聖子の後継として大々的に売り出され、年末には各音楽祭の最優秀新人賞を総なめにすることとなりました。 対象曲となった『-Dreaming Girl- 恋、はじめまして』は、各音楽祭の新人賞ノミネートの際と受賞の際に2回歌うので、テレビで何度歌っているシーンが放送されたか分かりません。 よく昔のアイドルを紹介する際に『新人賞を総なめ』と紹介されるケースがありますが、実際に音楽祭の最優秀新人賞を総なめにした女性アイドルは岡田有希子のみです。 『新人賞を総なめ』と呼ばれるほとんどの人は、最優秀新人賞のノミネートに当たる新人賞をいくつか獲得しただけか、場合によっては総なめという言葉に全く該当していなかったりします。 念願のヒット曲『くちびるNetwork』 デビュー以降の岡田有希子は、オリコンTOP10圏内には入るのですが大ヒットには至らないという状況が長く続きます。 しかし8曲目のシングル『くちびるNetwork』(1986年1月29日発売)で、ついにオリコン1位を獲得し世間的にも広く知られる曲となりました。 そして・・・ 『くちびるNetwork』がヒットした1986年2月以降、岡田有希子は『ザ・ベストテン』や『ザ・トップテン』などの出演が続き、忙しい日々を過ごします。 そんな矢先の1986年4月8日に、岡田有希子は自ら命を絶つのです・・・ 岡田有希子と私 私が個別のアイドルに対してファンになったのは岡田有希子が初めてです。 しかしファンになって間もなく岡田有希子は自殺という形で亡くなり、その後しばらくして、次いで好きだった中森明菜のファンになってみたりするものの、その中森明菜も自殺未遂騒動を起こします。 こういった度重なる不幸から、私は1人のアイドルに対し熱中することはなくなり、今でいう『DD(誰でもOK)』としてアイドル界を見つめるようになりました。 そしてこのことが、総勢250人を超えるアイドルの記事を書く当ブログに繋がっていくのです。 なぜ岡田有希子は自ら死を選んだのか・・・ 岡田有希子の死について考えることは私にとってとても辛いことで、できれば深く考えずに生きていきたいのですが、岡田有希子のことを書く上でこのことは避けて通れない話ですので、しっかりと考えていきたいと思います。 自殺の原因 峰岸徹との関係 岡田有希子の自殺の原因は、ドラマで共演した峰岸徹にフラれたことなのではないかと噂されており、このことは周囲の証言からも確認できます。 しかし峰岸徹が岡田有希子を弄んだという話は聞こえてこず、自身と大きな年齢差のあった岡田有希子に対し、峰岸徹は大人の対応をして距離を置いたに過ぎません。 少なくとも、峰岸徹に岡田有希子の死に対して責任があるとは言えないでしょう。 遠藤康子の死 実は、岡田有希子が亡くなる9日前の1986年3月30日に、遠藤康子という17才のアイドルが自殺をしています。 時期を考えれば、この遠藤康子の死が岡田有希子が自殺という道を選ぶことに影響が全くなかったとは考えづらく、何らかの影響は与えているものと思われます。 その他にも、噂レベルのものを含め岡田有希子の自殺の原因は様々の事柄が挙げられていますが、どれも自殺をする動機としてはイマイチに感じます。 当時の状況 岡田有希子が自殺した当時の状況について、時系列を追って考えてみましょう。 1986年3月3日、高校(堀越学園)を卒業 4月4日、芸能界デビュー時から居候していた事務所社長宅から引っ越し、1人暮らしを始める 4月5日、コンサート(渋谷公会堂) 4月6日、コンサート(名古屋市民会館) 4月7日、オフ日 4月8日朝、ガスとリストカットによる自殺未遂、事務所スタッフに保護される 4月8日12時15分、所属事務所のビルから飛び降り自殺 岡田有希子は亡くなる直前に一人暮らしを始めていますが、1986年4月6日に名古屋でコンサートがあるので、自殺未遂を行う前日の4月7日は、1人暮らしの生活をまともに始める最初の日に近い状況でした。 そのため、高校を卒業し一人暮らしを始めた不安や寂しさが自殺のきっかけになっている可能背も考えられます。 しかし上記の通り、岡田有希子は自宅での自殺未遂後、スタッフに連れられ所属事務所で一旦保護されています。 そこからスタッフの一瞬の隙を盗んで、ビルの屋上まで駆け上がり飛び降り自殺をしているわけです。 私は自殺したことがないのでよくは分かりませんが、自殺に失敗して周囲の人に助けられたら、一旦落ち着いて、すぐさま再び自殺をするなんてあり得ないのではないでしょうか? 少なくとも保護された場所から飛び降りるようなことは、一般的になかなか考えづらい行動です。 このように岡田有希子の自殺は突発的なものではなく、むしろ死に対して強い意志を感じ、1人暮らしの寂しさという理由だけで死を選んだという説は到底納得ができるものではありません。 結局、当時の状況を振り返っても、岡田有希子が自殺をするような原因は読み取れないのです。 岡田有希子の性格 岡田有希子の性格は、芸能界デビューのきっかけ『スター誕生! 』決戦大会への出場を親に反対された際、部屋に閉じこもってハンスト活動したことからも分かるとおり、かなりの頑固ものである様子が伺えます。 また、アイドルデビューの計画を考えてその通りに遂行しようとしたことから推測するに、決めたことを完ぺきにこなそうとする完全主義者であったとも考えられ、このことは成績が抜群に優秀であったことからも読み取れます。 しかし芸能界デビュー後の岡田有希子は、あまりの忙しさに自分で考えるようなことが何もできず、大きなストレスを感じていたのではないでしょうか? しかも自殺をした同時期に、岡田有希子が書く小説の連載が始まるという、スケジュール的に絶対不可能な企画も持ち上がっていたそうです。 通常、こういった企画はゴーストライターが書くのかもしれませんが、頭脳明晰で読書家な岡田有希子は小説家になることも1つの目標にしており、自分自身で小説を書きたかったと思われます。 ただ、人気絶頂期であった岡田有希子が小説を書く時間がないことは誰の目から見ても明らかでした。 当時の岡田有希子は、こういった諸々のことに耐えられなくなってしまっていた可能性があるのです。 しかし、だからと言って自殺という話には繋がらないでしょう。 岡田有希子の自殺についての個人的結論 結論から言えば、私は当時の岡田有希子に死に至るような原因はないと思っています。 では、実際に岡田有希子が亡くなっている現実をどう受け止めるかについてですが、それは当時の岡田有希子が忙しすぎということに集約されると思います。 当時のアイドルの忙しさは常軌を逸していて、舞台袖で10分でいいので寝かせてくれと嘆願するアイドルを見たという証言もありますし、絶頂期のピンク・レディーなどは、私の計算ではどんなに多く見積もっても1日マイナス46時間しか寝ていない計算になります。 これだけ忙しく寝不足の状態が続くと、正常な判断ができないレベルのうつ状態になっていてもおかしくありません。 岡田有希子の場合は、亡くなる半年程前の1985年11月5日から1986年1月28日まで、初主演したドラマ『禁じられたマリコ 』に出演していています。 岡田有希子にとって、拘束時間が長い主演ドラマの撮影は初めてのことで、心身ともに相当の疲労を蓄積したものと思われます。 そしてそのドラマが終わってすぐに『くちびるNetwork』がヒットし歌番組に立て続けに出演、更に亡くなった2日後には新しいドラマの撮影が始まる予定だったそうです。 このように当時の岡田有希子は、現実から逃げ出したくなるような忙しさが続いている状況でした。 この忙しすぎる状況が、岡田有希子が自殺という道を選ぶ大きな要因になっている可能性は極めて高いと思われます。 そして、そこに追いやったのは所属事務所と言えるでしょう。 岡田有希子は1984年の音楽賞を総なめにしているわけですが、正直、当時の岡田有希子にそこまで圧倒的な実力があったとも思えません。 多数の音楽祭で新人賞にノミネートすることや、いくつかの音楽祭で最優秀新人賞を獲得するのなら分かりますが、今までの女性アイドルが誰も成しえなかった音楽祭における最優秀新人賞の総なめは、さすがに実績とのギャップがありすぎると言えます。 岡田有希子の実力を否定するわけではないですが、大きなヒット曲もない状態で最優秀新人賞をあそこまで総なめにするのは明らかにおかしいわけで、そこには所属事務所の大プッシュがあったことは間違いないのです。 こういった所属事務所の過剰な期待が、岡田有希子にとって大きなプレッシャーになっていた可能性も捨てきれません。 そこに現実的な寝不足などの問題や本人の性格を併せ考えると、当時の岡田有希子は、本来なら気に留めることではないような出来事すらも、自殺のトリガーとなりかねない状況に陥っていたと考えられます。 そのため、他人から見たら自殺するような原因がないように見えるわけです。 自殺というものは、動機やきっかけにばかり注目してしまいがちですが、岡田有希子の場合は動機やきっかけが大きな原因ではなく、そこに至るまで状況のほうが大きな原因になっているのではないかと私は思っています。 岡田有希子と所属事務所の関係性 自殺をする頃の岡田有希子は、所属事務所に対して相当の不信感をもっていた可能性が高いと思われます。 事務所のビルから飛び降りたという事実もそうですが、自殺未遂後に1度保護されて、再びすぐに自殺を図るという不可思議な現象は、事務所の人間を自分の味方と見なしていなかった証拠なのではないでしょうか? もし事務所のスタッフに対して悪い感情を持っていたのならば、自殺未遂の後で保護された際に、手を差し伸べられという感情ではなく、再び悪夢のような生活に戻されるのではないかと感じた可能性が高く、すぐさま2度目の自殺を敢行することにも納得がいきます。 岡田有希子の自殺とは、峰岸徹との関係やその他の噂されている要因よりも、過熱したアイドルブームの中で、所属事務所が1人のアイドルを消費しつくしてしまった結果に生まれた悲劇の出来事だったのではないかと思います。 そもそも18歳の岡田有希子が24歳も年上の峰岸徹に好意を寄せたこと自体、精神をすり減らした岡田有希子の心の叫びだったのかもしれません。 自殺後の岡田有希子に対する評価 近年、岡田有希子のことをメディアで扱う際に、岡田有希子の活動を過度に称賛する傾向が見てとれますが、こういった岡田有希子の扱いについて、私は若干の違和感を感じています。 ですので私は、唯一ファンになったアイドルといってもいいような存在である岡田有希子であっても、称賛するようなことはありません。 岡田有希子の自殺後は『ユッコシンドローム』と呼ばれる後追い自殺が多発しました。 当然、後追い自殺をした人たちはそもそも人生に大きな問題を抱えていたのでしょうが、しかし岡田有希子が自殺という道を選ばなければ死なずに済んだ可能性も多分にあるわけで、やはり岡田有希子は自殺するべきではなかった思います。 そして何よりも、岡田有希子には生きていてほしかった! 自分は岡田有希子が死んで称賛されるよりも、とにかく生きていてほしかったのです。 この思いは、おそらく私が生きている限り続いていくことでしょう・・・ 私が好きなユッコ楽曲 私が好きな岡田有希子の曲は、 『 くちびるNetwork』 です。 私がどのタイミングで岡田有希子のファンになったのかは今さら思い出せないのですが、曲を聴きなおすと初期の頃より後期の頃ほうが好きな傾向にあり、岡田有希子最後のシングルとなったこの曲が1番好きな曲となっています。 作詞:松田聖子、作曲:坂本龍一というところも、今になって振り返ると、とても感慨深いものがあります。 贈りものIII [CD+DVD] こちらは、岡田有希子の全楽曲であるCD(6枚)と、プロモーションビデオとCMの映像を合わせたDVDがセットになったスペシャルBOXです。 愛をください [単行本] こちらは、岡田有希子が亡くなって間もなく出版された書籍で、岡田有希子の日記や母親の手記が収められています。 アンケート 関連記事 ・ ・ ・ ・ 名前:究極DD 年齢:思ったより若い 所在地:関東平野(情報が関東に偏る) 性格:生まれ持ってのデータ厨 好きなもの:女性アイドル 好きな番組:ザ・ベストテン 好きなドラマ:大映ドラマ 嫌いなもの:男性アイドル Twitter: カテゴリー• 9 アーカイブ アーカイブ プライバシーポリシー.

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岡田有希子さん没後34年、芸能人でただひとり墓参りを続ける荻野目洋子との“友情”

岡田 有希子

【2008年10月13日付デイリースポーツ記事より】 俳優の峰岸徹(みねぎし・とおる、本名・知夫=ともお)さんが、肺がんのため11日夜に都内の病院で死去していたことが12日、明らかになった。 65歳だった。 峰岸さんは、今年4月にがんが発覚し入院加療していた。 7月に仕事復帰したが、2週間ほど前に体調を崩し再入院。 そのまま帰らぬ人となった。 故人の遺志で葬儀・告別式は、親族のみの密葬で営まれ、後日「しのぶ会」が開かれる予定という。 鉄人レースに挑む体力をもってしても、がんを克服できなかった。 峰岸さんは11日夜、都内の病院で親族にみとられて静かに息を引き取った。 関係者によると「とても安らかな最期だった」という。 今年4月。 持病の腰痛の術前検査でがんが発見された。 自身の公式HP上に7月12日付でその時の心境を「一瞬何が何だかわからず、全てが止まった」「私は腰の手術で入院したのだ。 そんなバカなウソだろ」などと赤裸々につづっている。 出演を予定していた6月の舞台を「腰痛の悪化」を理由に降板した。 その陰で必死にがんと闘った。 5月から抗がん剤や放射線治療を受けた。 「がんにいい」と教えられた秋田県・玉川温泉まで湯治に出向いたことも。 経過は良好だった。 7月にはがんを公表し、テレビ東京の旅番組で仕事復帰も果たした。 現在、公開中の映画「おくりびと」にも出演している。 だが、2週間ほど前から体調が急変し入院。 そのまま帰らぬ人となった。 12日の未明に都内の自宅に無言で帰宅した。 この日、自宅には、親交のあった映画監督の大林宣彦氏ら友人らが弔問に訪れた。 62年デビューの峰岸さんは数々の映画、ドラマ、舞台で活躍した。 一方、最近はトライアスロンにのめり込み、00年から沖縄・宮古島の大会に参加。 闘病中も「来年の大会には出るんだ」と希望を持ち続けた。 今月19日には大阪で開催される「肺がんフォーラム」で、患者の立場でゲスト講演する予定だった。 HPでは「私は負けない、絶対に負けない」「私は絶対に負けません、癌なんかに…!!」と不屈の意気込みを示していた峰岸さんだったが、65歳の若さで天国へと旅立った。 俳優業以外で峰岸さんが注目を浴びたのは、86年4月8日、人気アイドル・岡田有希子さん(享年18)が投身自殺するというショッキングな事件が起きた時。 自殺の要因の一つが失恋のショックとされ、その交際相手として噂(うわさ)されたのが、ドラマで共演経験のある峰岸さんだった(当時42歳)。 事件当日、緊急会見を開いた峰岸さんは「妹のような感じで、いろいろアドバイスしたりする仲だった。 兄と妹の関係以上にはなかった」と、恋人説を否定しつつ「僕にも責任がある」と涙を浮かべて語っていた。

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岡田有希子の遺体写真は流出させて大丈夫なものだったのか

岡田 有希子

特に日本では、3月から5月にかけて、子供や若者を中心に自ら命を絶つ人が増える傾向にある。 学校の児童や生徒の自殺については、夏休み明けの9月1日に多発することが知られているが、自殺対策白書(14年)の「18歳以下の日別自殺者数」によれば、それに次ぐのが4月の8日と11日。 そして、86年の4月8日に、18歳で自殺したのがアイドルの岡田有希子である。 デビュー3年目の彼女は前月、高校を卒業しており、社会人として本格的なスタートを切った矢先の死だった。 所属事務所のサンミュージックが入っているビルの屋上から飛び降り、即死。 ただ、遺書はなく、理由は謎につつまれた。 もっとも、自殺の理由が単純であることはまずない。 彼女の場合もおそらく、プライベートな問題も含め、複合的なものが考えられる。 ままならない恋愛だったり、両親の不和だったり、 母の病気だったり。 また、彼女は中学2年のときにも実家でガス自殺まがいの行動をしていた。 母が帰宅すると、ガスの元栓がゆるんでいて、彼女がこう説明したというのだ。 「途中でニオイに気づいて消した。 だけどあのままでいたら自殺じゃなく、自然に死ねたのにね。 だけどやっぱり死ねなかった」(「愛をください」岡田有希子) 当時、彼女は教師からのひいきを級友に嫉妬されたり、コンテストへの応募を周囲に反対されたりして、不安定な精神状態だった。 また「人間が怖い」とも口にしていたため、母は「自殺しようとしたんじゃないだろうか」と「直感」したらしい。 そして、じつは自殺の数時間前にも自宅でガス自殺未遂をしていた。 それゆえ、専務だった福田時雄は、自殺未遂で迷惑をかけた自責の念から、パニックに陥り、飛び降りてしまったという見方をしている。 ただ 、彼女がひどく疲れていて、死への衝動に身を委ねたい状態だったのも事実だろう。 そこには、仕事における重圧もやはり作用していたのではないか。 この重圧については、5日にアエラドットから配信された記事「岡田有希子さん没後34年。 事務所の先輩である松田聖子が85年に結婚したため「ポスト聖子」の期待をかけられ、人一倍マジメな性格だった彼女にはそれも負担だったと思われるのだ。 ちなみに、仕事に疲れたり、飽きたりすると、女性の芸能人は恋に逃げがちだ。 聖子もそうだし、安室奈美恵などもそうだった。 これは長い目で見ればステップアップにもつながり、悪いことではない。 彼女の場合も、報じられた年上俳優との関係が事実なら、そういう方向で何かを打開しようとしていたのだろう。 しかし、彼女の試みは成功しなかったようで、結果、死に逃げるかたちとなった。 それは運や巡り合わせより、その性格によるところが大だったかもしれない。 中学時代にも自殺未遂まがいの行動をしたように、生きづらさから逃れるために死を考えるような性格だったのだ。 また、芸能人は大なり小なり、生まれ育った環境からの脱却を願ってデビューする。 彼女の場合は、父方が教育者の多い家系で、本人も優等生だった。 その環境や立場の息苦しさが芸能や芸術への憧れを強め、猛反対を押し切っての芸能界入りにつながっていく。 ただ、芸能人になったところで生きづらさが完全に消滅するわけではない。 結局、彼女はまた死にたくなってしまったということだろう。 偏差値世代の挫折などともいわれたそんな彼女のありように、子供や若者たちが共鳴したのが「ユッコ・シンドローム」と呼ばれた現象だ。 この年の初めから目立ち始めていた若年層の自殺は、彼女の死によってさらに激増する。

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