地動 説 ガリレオ。 天動説、地動説から新しい時代へ ガリレオとケプラーとニュートン | Tidbits

天動説、地動説から新しい時代へ ガリレオとケプラーとニュートン | Tidbits

地動 説 ガリレオ

重い物体も軽い物体も、同時に落とすと、同時に地面に到達します。 ガリレオ・ガリレイが提唱した「落体の法則」。 この法則を提唱する以前の16世紀頃はアリストテレスが提唱した、物体の落下速度は物体の重さに比例するという説が信じられていました。 この説を覆したのが、ガリレオ・ガリレイです。 科学者として世界を変えたガリレオ・ガリレイについて特集します。 ガリレオ・ガリレイの生涯 ガリレオ・ガリレイは1564年にイタリアのトスカーナ地方ピサで、ヴィンチェンツォ・ガリレイの第一子として生まれます。 父のヴィンチェンツォは音楽家で呉服商も営んでいた人物です。 またヴィンチェンツォは音響学の研究を行っており、数的な記述・分析を重視する手法を用いることを重視していました。 これが後に息子ガリレオが運動研究で重視した数的な手法に影響を与えることになったと指摘されています。 1581年にガリレオはピサ大学に入学しますが、1585年に退学してしまいます。 ガリレオを大学から遠ざけた原因のひとつに、数学者オスティリオ・リッチとの出会いがあります。 ピサ大学在学中の1582年頃から数学者リッチからユークリッドやアルキメデスを学びます。 その結果、大学を退学した翌年の1586年にはアルキメデスの著作に基づいて天秤を改良し最初の科学論文『小天秤』を発表します。 その論文が評価され、1589年にはピサ大学の教授の地位を得て、数学を教え始めます。 その後、1592年にパドヴァ大学で教授の職を得て、1610年まで幾何学、数学、天文学を教えます。 この時期、ガリレオは「落体の法則」や「地動説」など多くの画期的発見や改良を成し遂げています。 輝かしい功績を残したガリレオでしたが、晩年は苦境を味わいます。 当時の時代背景は中世イタリアの権力者たちの権力争いが激化していました。 ガリレオもその渦に巻き込まれてしまいます。 学問においては天才的な才覚を発揮しながら、政治や人間関係に関しては不得手で素朴な考え方をしていたガリレイは、権力者達と馬が合わず、次第に敵を増やす形になってしまいます。 そして、ガリレオのことを快く思わない者によって、彼の支持した地動説を口実に異端審問で追及されるまで追い込まれ、職を失ってしまいます。 ガリレオ・ガリレイが受けた異端審問 軟禁状態での生活を送ることになったガリレオ。 職を失い経済的に苦境に立たされ齢も重ねたガリレオは次第に病気がちになります。 そこに、追い打ちをかけるようにガリレオを看病していた最愛の長女ヴィルジニアを1634年に病気で失います。 さらにガリレオは1637~1638年頃には失明をしてしまいます。 そうした困難な状況においてもガリレオは弁論や論評などで成果を残し、1642年に没します。 ガリレオ・ガリレイの功績 「落体の法則」の発見 ガリレオはピサの斜塔の上から、同じ大きさの鉄の球と木の球を同時に落とす実験を行い、どちらの球も同時に地面に到達することを証明したといわれています。 ガリレオは落下現象を詳しく調べようとしましたが、高精度カメラのない当時では、落下物の速さは速すぎて、調べることができません。 そこで、滑らかな斜面をつくって、そこに鉄の球を転がして球の落下距離と落下速度の関係を調べました。 斜面を転がるときのほうが、落下しているときよりも、ゆっくり球が動くので調べやすかったからです。 しかも、ガリレオはこの実験を行うにあたって、球を斜面で転がすことと、自然落下させることは同じであることもきちんと証明しました。 もしも同じでなければ、実験の意味がなくなるからです。 こうしてガリレオは、「落下距離は落下時間の二乗に比例する」という結論を導き出しました。 「地動説」の確立 ガリレイといえば、地動説を唱えたことで有名です。 当時は、キリスト教の世界観が広く信じられていた時代で、あくまでも地球が世界の中心であり、太陽も月も星々も地球を中心として回っていると考えられていました。 ガリレオよりも100年ほど前に生まれたポーランドの天文学者コペルニクスは、肉眼で天体の動きを観測し、1507年頃、「地球は太陽の周りを回っている」とする地動説を発表しました。 この考え方は当時の社会に広まり、大きな議論を巻き起こしました。 コペルニクスの地動説が広まったのは、グーテンベルクにより印刷に改良を加えた活版印刷技術の発明されて以来、普及していった印刷物というメディアによるところが大きいといわれています。 当時は、論理に論理を重ねて抽象論の極みにまで達していたキリスト教的な世界観に、不満を持つ人々が増えていました。 そのため、古い天動説をひっくり返すコペルニクスの地動説は、当時の人々に共感をもって受け入れられたのです。 地動説派のケプラー 地動説を否定する学者たちは、「地球が動いているのなら、塔の上から石を落としても、真下には落ちないはずだ」と言いました。 地球が東に動いているなら、落とした石は、西側にずれて落ちるはずだというのです。 このような反論に対してガリレオは、走っている船のマストの上から物を落とすと、マストの真下に落ちる。 だから、地球が動いていても、塔の上から落とした石は、真下に落ちるのだと反論しました。 これを「ガリレオの相対性」と呼び、後のアインシュタインが提唱した相対性理論につながります。 そのような研究のなかで、ガリレオの地動説を決定的にしたのが天体望遠鏡の登場です。 望遠鏡は、1608年頃に、オランダのレンズ技師リッペルスハイによって発明されたといわれています。 ガリレイはいち早くこの技術を取り入れ、1609年に自ら望遠鏡を作り上げました。 対物レンズに凸レンズ、接眼レンズに凹レンズを使った望遠鏡で、現在の小型の双眼鏡くらいの性能です。 この望遠鏡は、肉眼だけでは見ることができない天体の姿をガリレオに見せました。 ガリレオの望遠鏡 望遠鏡を使い、ガリレオは月面に凹凸、そして黒い部分クレーター(当時ガリレオは海と考えた)があることを発見します。 また翌年の1610年には木星の衛星を3つ発見します。 その後見つけたもう1つの衛星と併せ、これらの衛星はガリレオ衛星と呼ばれています。 この観測結果は1610年3月に『星界の使者』として論文発表されました。 木星の衛星の発見は、当時信じられていた天動説については不利なものであったため、大きな論争を呼びます。 その結果、ガリレオは世界的な名声を得ることになります。 ガリレオは、太陽表面の黒点の位置の変化から太陽が自転していること、木星の衛星が木星の周りを回っていることなどを発見し、地動説の正しさを世に示しました。 科学革命を先導 ガリレオは、科学革命の中心人物とされています。 科学革命以前も科学と言われるものが存在していなかったわけではないが、それは錬金術のようなことからおこった即物的な技法や、せいぜいアリストテレス的な自然をそのまま観察して理屈を導く出すことに留まり、カトリック教会の超自然的な世界観を克服することは出来ませんでした。 そのような中で17世紀を迎え、望遠鏡、顕微鏡などの用具の発明に伴う観察・実験という方法論の精密さが実現したこと、数学が自然現象の理論付けに用いられるようになったことで科学は飛躍的な進歩を遂げ、地位を確立します。 その革命の先駆的な役割を果たしたのがガリレオ・ガリレイです。 ガリレオは民衆に同一の実験を促して検証させることによって、自説の正しさを証明するという手段をとりました。 その結果、中世的な考えからの脱却と科学的・数学的研究方法の確立を果たし、大きな社会的影響をもたらす科学理論を構築します。 世界を変えたガリレオ・ガリレイ ガリレオが提唱した「落体の法則」や「地動説」は従来の考えを覆す画期的な内容です。 また研究のために、実験を重視し、そこから得られたデータを元に客観的に分析するという実証的な手法は科学革命を起こし、科学の地位を確立しました。 まさに世界を変えた偉大な人物と言えます。 ガリレオ・ガリレイが残した名言・格言 どんな真実も、発見してしまえば誰でも簡単に理解できる。 大切なのは、発見することなのだ。 それでも地球は動いている 人にものを教えることはできない。 みずから気づく手助けができるだけだ。

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地動 説 ガリレオ

ガリレオ・ガリレイの肖像がデザインされている2000リラ紙幣 ガリレオ・ガリレイ(: Galileo Galilei、 - )は、の、。 を樹立するのに多大な貢献をし、しばしば「近代科学の父」と呼ばれる。 また天文学分野での貢献を称えて「天文学の父」とも呼ばれる。 最初は医学を学ぼうとで学んだが 、やの本を読むうちにやへと関心が移った。 そのうち学資不足となり、大学を途中で去った ものの、やの研究などで頭角を現し 、1589年~1591年にはピサ大学の数学講師 、1592年~1610年にはの(および天文学などの)教授として勤務。 ()分野では、「振り子の等時性」に関する研究や「斜面上をころがる物体の運動」に関する理論などを出発点として 1604年頃には落体(らくたい。 方向に落下する物体。 英語では「falling body」)の運動法則の「(数学的)定式化」(英語で「mathematical formulation」と呼ぶプロセス)を完成させた。 自然現象に対して、数学的手法およびを用いて迫り、(仮説を)によって検証するというガリレイの方法は 、(当時はまだ存在していなかった)「科学」の方法を新たに確立するのに大きく貢献するものであった。 天文学分野では、みずから改良したを使って木星の衛星、月面の凹凸(=)、太陽のなどのを発見し、『』( Sidereus Nuncius、1610年刊行)を著した。 1610年に「付きの数学者」という(その地域では)名誉ある地位、1611年にはローマの ()会員となった。 主著の『 ()』 Dialogo sopra i due massimi sistemi del mondo, tolemaico e copernicano(1632年)や『 ()』 Discorsi e dimostrazioni matematiche intorno a due nuove scienze attenenti alla meccanica(1638年)は、いずれも(イタリア人が実際に話している)で書かれ、しかもいきいきとした対話形式で書かれた本であり、当時の「学術書というのはで書くもの」という学術的伝統の殻を打ち破って、自身の文学的才能も見せつつ、彼自身は「nuove scienze」(「新たな知(識)」)と呼んだ、現在の自然科学へと繋がる手法を創始した書である。 名前 [ ] 地方では、長男の名前には「姓」を単数形にしてその名前とすることがある。 の第一子が「ガリレオ・ガリレイ」と名付けられたのも長男ゆえと考えられる。 なおイタリア語が分かる人にとっては、彼の名は当時のヨーロッパの文化を反映した、的な名前であり、「Galileo」は「の人()」という意味の言葉であり、複数形「Galilei」は「ガリラヤの人々」や「キリスト教徒(たち)」を指しうる。 を付けた単数形 「 il Galileo 」はにとっては、(ガリラヤ生まれの人である)を主に指す、婉曲表現である。 イタリアでは特に偉大な人物を姓ではなく名(いわゆるファーストネーム)で呼ぶ習慣がある(ほかにも、、(ダ・ヴィンチ)、、、(イタリア系フランス人)など)ため、名を使って「ガリレオ」と呼称されることが多い。 ちなみに、ガリレオ・ガリレイの家系には同じ「ガリレオ・ガリレイ」という名の医師がいた。 生涯 [ ] 生い立ち [ ] ガリレオは1564年、(Vincenzo Galilei)を父、ジュリア・アンマンナーティ()を母として、領で誕生した。 父のヴィンチェンツは生まれの、禄高は微々たるものだったが一応は貴族の出身者で 、生業(生活費を得るための職業)としては呉服商を営んでいたが 、学の研究者やとしても名が知られた人物であった。 母は生まれであった。 2人はに結婚し、その翌年にイタリアのトスカーナ大公国領ピサで長男のガリレオが生まれた。 この後、ガリレオには4人、2人ができた。 なお弟のひとり ()( - )は父のように音楽方面で活躍し、奏者、として名を残した。 父ヴィンチェンツォはので数的な記述・分析を重視する手法を用いた。 これがのちに息子ガリレオが運動研究でとった数的な手法に影響を与えることになった、と指摘されている。 学業と業績 [ ] 、ガリレオはに入学するが、に退学。 1582年ごろからトスカーナ宮廷つきの ()にやを学び、にはアルキメデスの著作に基づいて天秤を改良し最初の科学論文『小天秤』を発表する。 にピサ大学の教授の地位を得て、を教えた。 1624年のデッサン 前述のようにガリレオの父は音響学の分野ではすでに数学的な手法を大いに取り入れていたわけであるが、息子のガリレオは、物体の運動の研究をするときに(父にならって)実験結果を数的(数学的)に記述し分析するという手法を採用した。 このことが現代の自然科学の領域で高く評価されている。 彼以前にはこのように運動を数的に研究する手法はヨーロッパにはなかったと考えられている。 さらにガリレオは、天文の問題や物理の問題について考えるときにアリストテレスの説や教会が支持する説など、既存の理論体系や多数派が信じている説に盲目的に従うのではなく、自分自身で実験を行って実際に起こる現象を自分の眼で確かめるという方法をとったと一般に考えられている。 それらにより現代では「科学の父」と呼ばれている。 フィレンツェでのガリレオの家 信仰の篤いガリレオは、2人の娘、ヴィルジニア・ガリレイ(Virginia Galilei、 - )とリヴィア(Livia、 - )を幼いうちに ()のに入れた。 ヴィルジニアはにとなりマリア・チェレステ()と改名した。 この名はの名と、父ガリレイの愛する天文学にちなむ言葉を組み合わせたもので、Celesteとはイタリア語で「天」のことである。 マリア・チェレステ尼と父ガリレオは親子の情愛に満ち溢れた手紙のやりとりをしていたようで、マリア・チェレステから父ガリレオに宛てた手紙124通が、ガリレオの死後に彼の文書の中から発見され現存している。 リヴィアはにとなりアルカンジェラと改名した。 息子のヴィンツェンツィオ(Vincenzio、 - )はに父に認知され、セスティリア・ボッキネーリ(Sestilia Bocchineri)と結婚した。 晩年 [ ] 晩年、最愛の長女ヴィルジニア(マリア・チェレステ)を失った後のガリレオ(1636年)。 ()による肖像画。 当時(イタリア)の権力者たちの権力争いの渦 に巻き込まれる中で、次第に敵を増やす形になってしまい 、ついには彼のことを快く思わない者によって、彼の支持した地動説を口実にで追及されるように追い込まれたり、職を失ったり、状態での生活を送ったりすることになった。 職を失い経済的に苦境に立たされ、齢も重ねたガリレオは病気がちになった。 これを知ったは、自身も『宇宙論(世界論)』の公刊を断念してしまった。 追い打ちをかけるように、ガリレオを看病してくれていた最愛の長女ヴィルジニア(マリア・チェレステ)を1634年に病気で失ってしまう。 さらに1637 - 1638年頃には失明した。 フィレンツェのにあるガリレオの墓 しかし、そうした困難な状況においてもガリレオは口述筆記で成果を残し、1642年に77歳で息を引き取った。 年譜 [ ]• イタリアの郊外で音楽家で呉服商のの長男として生まれる(当時、この地は領だった)。 に入学(医学専攻)。 ピサ大学退学。 家族でに移住。 最初の論文『小天秤』を発表。 初めてを訪問。 当時の碩学を尋ね、教授職の斡旋を願う。 ピサ大学数学講師(一説では教授)に就任(3年契約)。 父ヴィンチェンツォ死去。 ピサ大学の職が任期切れになる。 (が捕縛される。 (現在のイタリアの一部)の教授(6年契約)となり移住。 このころ、落体の研究を行ったとされる。 宛の手紙で、を信じていると記す。 パドヴァ大学教授に再任。 このころ、マリナ・ガンバと結婚。 1男2女をもうける。 ( 、により火あぶりの刑になる。 からトスカーナ大公の息子の家庭教師を兼任(大学の休暇時期のみ)。 (1608年 ネーデルランド共和国(オランダ)での発明特許紛争。 トスカーナ大公フェルディナンド1世死去。 ガリレオの教え子のコジモ2世がトスカーナ大公となる。 5月オランダの望遠鏡の噂を聞き、自分で製作。 以後天体観測を行う。 11月30日、月を観測し月が天体であることを理解する。 木星の衛星を発見、「(トスカーナ大公家のこと)の星」と名づける。 これを『』( Sidereus Nuncius)として公刊する。 このころから、地動説へ言及することが多くなる。 (ケプラーが『星界の報告者との対話』を発刊、ガリレオを擁護する。 ピサ大学教授兼トスカーナ大公付哲学者に任命され、次女のみを連れフィレンツェに戻る。 『論』を刊行。 1613年ごろ マリナと別れ、彼女の新しい結婚相手を見つけたとされるが、伝記の記載のみで根拠がないともいわれる。 1613年ごろ 娘2人を修道院に入れる。 地動説をめぐり修道士ロリーニと論争となる。 第1回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から、以後、地動説を唱えないよう注意を受ける。 の『』がローマ教皇庁より閲覧一時停止となる。 『贋金鑑識官』がへの献辞をつけて刊行される。 娘たちのいるフィレンツェ郊外アルチェトリの修道院の脇の別荘に居住。 『二大世界体系についての対話( Dialogo Sopra I Due Massimi Sistemi del Mondo)』(日本語版は『 ()』)をフィレンツェで刊行。 ローマへの出頭を命じられ、ローマに着く。 第2回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から有罪の判決を受け、終身刑を言い渡される(直後にトスカーナ大公国ローマ大使館での軟禁に減刑)。 のピッコロミーニ大司教宅に身柄を移される。 アルチェトリの別荘へ戻ることを許される(ただし、フィレンツェに行くことは禁じられた)。 ガリレオを看病していた長女マリア・チェレステ死去(生まれたときの名はヴィルジニア)。 片目を。 翌年、両眼を失明。 以後、執筆は弟子と息子ヴィンツェンツィオによる口頭筆記になる。 オランダで『新科学対話』を発刊。 口頭筆記には弟子のが行った。 晩年 を発明。 図面を息子とヴィヴィアーニに書き取らせる。 アルチェトリにて没。 業績 [ ] 天文学 [ ] 『』(1623年)。 が天体かどうかという問題を巡って、サルシなる人物(論敵のグラッシを想定しているとされる)の説を酷評する。 またこの書でガリレイは、という書物は数という言葉で書かれている、という見解を示す。 ガリレオはをもっとも早くから取り入れた一人である。 ネーデルラント連邦共和国(オランダ)で1608年に望遠鏡の発明特許について知ると、1609年5月に1日で10倍の望遠鏡を作成し、さらに20倍のものに作り変えた。 これを用いて1609年に望遠鏡を向けて見たガリレオは、月面に、そして黒い部分(ガリレオはそこをと考えた )があることを発見した。 現代ではこのような岩石型の天体の表面の凹凸はと呼ばれている。 月は完璧に球形であるとする古いアリストテレス的な考えでは説明がつかないものであった。 また、翌年の1610年1月7日、木星の衛星を3つ発見。 その後見つけたもう1つの衛星とあわせ、これらの衛星はと呼ばれている。 これらの観測結果は1610年3月に『星界の使者( Sidereus Nuncius)』として論文発表された(この論文には3月までの観測結果が掲載されているため、論文発表は4月以降と考えられたこともあるが、少なくとも、ドイツのが4月1日にこの論文を読んだことが分かっている)。 この木星の衛星の発見は、当時信じられていた天動説については不利なものであった(詳細な理由はを参照)。 そのため論争に巻き込まれはしたが、世界的な名声を博した。 晩年に、これらの衛星の公転周期を航海用の時計として使うことも提案しているが、精度のよい予報ができなかったことや、曇天時に使えないわりには、船舶に大きな設備を積む必要があったことから、実際には使われなかった。 金星の観測では、金星が月のように満ち欠けを繰り返すうえに、大きさを変えることも発見した。 プトレマイオスモデルでは、金星は地球と太陽を結ぶ線に置かれた周転円の上にある。 この場合、金星は地球から常に三日月型にしか見えないはずであった。 これは、金星が太陽の周りを公転していることの確かな証であった。 さらに、望遠鏡での観測で太陽の黒点を観測した。 これは、太陽ですら完全なものではないという疑惑を投げかける発見になった。 ガリレオは、望遠鏡での観測で太陽の黒点を観測した最初の西洋人とされる。 ただし、中国の天文学者がこれより先に太陽の黒点を観測していた可能性もある [ ]。 なお、ガリレオは晩年に失明しているが、これは望遠鏡の見過ぎであると考えられている。 ガリレオは1597年にケプラーに宛てた手紙の中ですでにを信じていると記しているが 、17世紀初頭まではそれを公言することはなかった。 おもにこれら3点(木星の衛星、金星の満ち欠け、太陽黒点)の証拠から、地動説が正しいと確信したガリレオは、この後、地動説に言及することが多くなった。 そのほか、が無数のの集合であることなども発見した。 物理学 [ ] Discorsi e Dimostrazioni Matematiche Intorno a Due Nuove Scienze『新科学対話』1638年刊 で揺れるシャンデリア(一説には香炉の揺れ)を見て、(同じ長さの場合、大きく揺れているときも、小さく揺れているときも、往復にかかる時間は同じ)を発見したといわれている。 ただしこれは後世に伝わる逸話で、実際にどのような状況でこの法則を見つけたのかは不明である。 この法則を用いて晩年、を考案したが、実際には製作はしなかった。 ガリレオはまた、落体の法則を発見した。 この法則はおもに2つからなる。 1つ目は、物体がするときの時間は、落下する物体の質量には依存しないということである。 2つ目は、物体が落下するときに落ちる距離は、落下時間の2乗に比例するというものである。 その方程式は次のようにあらわされる。 この有名な故事はガリレオの弟子(Viviani)の創作で、実際には行われていないとする研究者も多い。 このエピソードに先立ってすでに「落下の法則」を発見していたオランダ人のの実験と混同して後世に伝えられることになる。 よって後述のアリストテレスの理論を瓦解させたのはガリレオではなくステヴィンの功績となる。 実際にガリレオが行った実験は、斜めに置いたレールの上を、重さが異なり大きさが同じ球を転がす実験である。 斜めに転がる物体であればゆっくりと落ちていくため、これで重さによって落下速度が変わらないことを実証したのである。 この実験は、実際にもその様子を描いた絵画が残っている。 アリストテレスの自然哲学体系では、重いものほど早く落下することになっていたため、ここでもアリストテレス派の研究者と論争になった。 ガリレオ自身は、たとえば、1個の物体を落下させたときと、2個の物体をひもでつないだものを落下させたときで、落下時間に差が生じるのかというような反論を行っている。 科学革命 [ ] ガリレオは、、、と並び、の中心人物とされている。 読者に同一の実験を促して検証させることによって、自説の正しさを証明するという手段をとった、最初期の科学者である。 ただし、そのような手段をとった科学者はガリレオ以前にも(ラテン名アルハゼン)、、などがいる(ハーベーやギルバートも科学革命を推し進めた人物とされている。 また、ガリレオは自著の中でたびたびギルバートに言及している)。 有名な失敗 [ ] 彼が発表した説には大きな過ちのある説も多かったが、近代科学の発生初期の人物のため、そのような過ちはあって当然だという指摘もある。 同時代のケプラーや若干後のニュートンなども同じような失敗があった。 ここでは主なものを挙げる。 が発表されても「すべての天体は完全な円を描いて運動する」と主張し続け、「楕円運動などをするわけがない」というようなケプラーを暗に批判する文も書いている。 その意味では、ガリレオはアリストテレス的な考えにまだ縛られていた時代の人物であった。 ケプラーの『』が発表され、楕円軌道に基づいて惑星の位置予報がされる時代になっても撤回しなかった。 地動説の証拠としてを挙げた。 実際には月と太陽の重力が原因であり、ガリレオの時代の科学ではまだ説明ができない現象であった。 ガリレオ自身は潮汐こそが地動説のもっとも重要な証拠だと考えていたふしがあるが、この主張は当時分かっていた科学的事実にも整合せず、最初から誤っていたものであった。 もしガリレオの説が正しければ、満潮は日に1度しか起きないはずであるが、実際には通常約2回起きる。 ガリレオは2度あるように見えるのは、地形などがもたらすもので例外的なものだと主張した。 光速の測定を試みた。 遠く離れた2地点で、aがランプのカバーを外し、aのランプが明るくなったのを見たbもランプのカバーを外し、aが自分がランプのカバーを外してから、bのランプが明るくなるまでの時間を計測するというものである。 当然ながら光速が速すぎて失敗した。 その他のおもな業績 [ ]• 「小天秤」• 関数尺を改良したもので、さまざまな計算を行うことができた。 また分度器の機能も持っており、天体の観測に使用できた。 ガリレオはパドヴァ大学教授時代にこのコンパスを販売し、使い方を教えることで収入を得ていた。 裁判 [ ] ローマの異端審問所で異端審問を受けるガリレオ ガリレオが地動説を唱え、それを理由にから有罪判決を受けたことはかなり有名である。 このことから、当時地動説を唱えるものはすべてとされ、それによって科学の発展が阻害されたと考えられてきた。 しかし現在では、ガリレオが神父たちよりもの本質をよく理解し、科学的な言葉でそれを説いていたために快く思われず、でっちあげの偽裁判で有罪判決を受けたのではないかと指摘されている。 第1回の裁判 [ ] ガリレオが地動説について言及し始めると、ロリーニと論争になり、ロリーニはローマ教皇庁検邪聖省(以前のが名を変えたもの)にガリレオが唱えている地動説は異端であると訴えた。 このの担当判事はだった。 このときの判決文はバチカンの秘密文書室に保管されているが、第2回の裁判までの途中で偽造された疑いが濃厚である。 その内容は、次のようなものであった。 「太陽が世界の中心にあって動かず、大地が動くという上記意見を全面的に放棄し、そしてその意見をふたたび話してでも書いてでも、どのような仕方においても抱かず、教えず、弁護しないよう命じられ、申しつけられた。 さもなければ聖省はかれを裁判にかけるであろうと。 この禁止令にガリレオは同意し、従うことを約した。 」 しかし、この判決文にガリレオの署名はなく、第2回の裁判においてもガリレオは見たことがないと主張している。 第1回裁判の判決が下される少し前、担当判事のベラルミーノがガリレオの友人へ送った手紙には、「私は、あなたとガリレオが、もし自分たちの意見を1つの仮説として、そして1つの絶対的真理としてではなく発表するのであれば、これまで以上に慎重に行動してよいと思う」 と綴り、必ずしもガリレオの研究を否定していない。 この手紙の内容と矛盾するため、第1回裁判の判決文は第2回裁判のために偽造されたと考えられている。 第1回裁判の直後、、ローマ教皇庁はコペルニクスの地動説を禁ずる布告を出し、コペルニクスの『天球の回転について』は一時閲覧禁止の措置がとられた。 ガリレオは、ベラルミーノの忠告もあり、しばらくは活動を控えた。 第2回の裁判 [ ] 、ガリレオは地動説の解説書『天文対話』を執筆した。 この書は、と地動説の両方をあくまで仮説上の話として、それぞれを信じる2人とその間をとりもつ中立者の計3人の対話という形を取って、地動説のみを唱えて禁令にふれることがないよう、注意深く書いてあった。 ガリレオは、ベラルミーノの判決文の内容から、地動説を紹介しても、その説に全面的に賛同すると書かなければ問題はないと考えて出版許可をとり、ローマ教皇庁も若干の修正を加えることを条件に出版許可を与えた。 『天文対話』は、、フィレンツェで印刷、発行された。 翌、ガリレオは再度ローマ教皇庁の検邪聖省に出頭するよう命じられた。 被疑は、の裁判で有罪の判決を受け、二度と地動説を唱えないと誓約したにもかかわらず、それを破って『天文対話』を発刊したというものだった。 ガリレオが、あえてこの書をローマではなくフィレンツェで許可をとったこと、ローマ側の担当者に、序文と書の末尾だけしか送らずに許可をとったこと、ガリレオが事情に詳しくないフィレンツェの修道士を審査員に指名したことなどが特に問題とされた。 ただし、全文が数百ページあるという理由で序文と末尾の送付で済ませることには事前にローマ側担当者も同意しており 、ガリレオが指名したフィレンツェの審査官は正規のフィレンツェの異端審問官であった。 さらに、書の表紙に3頭のイルカが印刷されていることさえ、それが教皇に手下がいるという意味だというねじ曲げた解釈をする者がローマにおり、問題とされた。 ただしこの3頭のイルカは、フィレンツェの出版業者のマークで、ほかの書籍にも印刷されていたため実際には問題にはならなかった。 裁判でガリレオは、ベラルミーノ枢機卿が記した「ガリレオは第1回の裁判で地動説の放棄を誓っていないし、悔い改めが強要されたこともない」という証明書を提出して反論した。 しかし検邪聖省は、ガリレオを有罪とするという裁判記録を持ち出して再反論した。 この裁判記録には裁判官の署名がなく、これは検邪聖省自らが定めた規則に沿わないものであった。 しかし、裁判では有罪の裁判記録を有効とし、ガリレオの所持していた証明書は無効とされた。 第1回の裁判の担当判事ベラルミーノはに死去しており、無効の根拠を覆すことはできなかった。 この結果、ガリレオは有罪となった。 検邪聖省側の記録には、地動説を「教えてはいけない」と書いてあったが、ガリレオが提出した「ベラルミーノ枢機卿の証明書」には、教えることの是非についての記載はなかった。 裁判ではこの命令が実際にあったという前提で進められた。 ガリレオ自身はそう言われたかどうか記憶にないが、なかったとは言い切れないと答えている。 1616年にガリレオとベラルミーノ以外の人物もいたことになっており、これについてはガリレオも認めているが、その人物が誰で何人いたのかについては不明のままであった。 当時の裁判にも参加し、ガリレオの親友でもあったバルベリーニ枢機卿(Maffeo Vincenzo Barberini)がローマ教皇となっていたが、教皇の保護はなかった。 一説によれば、『天文対話』に登場するシンプリチオ(「頭の単純な人」という意味)は教会の意見を持っており、シンプリチオは教皇自身だと教皇本人に吹き込んだ者がおり、激怒した教皇が裁判を命じたというものがある。 この説には物証がないが、当時から広く信じられている。 さらにガリレオ自身、敬虔なカトリック教徒であったにもかかわらず、科学については教会の権威に盲目的に従うことを拒絶し、哲学や宗教から科学を分離することを提唱したことも、当初ガリレオを支持していたウルバヌス8世が掌を返したようにガリレオを非難するようになった要因とされる。 そして結果的にはガリレオ裁判において、ガリレオを異端の徒として裁かせる結果に繋がっている。 1633年の裁判の担当判事は10名いたが、有罪の判決文には7名の署名しかない。 残りの3名のうち1名はウルバヌス8世の親族であった。 もう1名はこの裁判にはもとから批判的な判事だったとされている。 ただし、判決文に7名の署名しかないのは、単に残りの判事は判決当日、別の公用で裁判に出席できなかっただけではないかという推測もされている。 なお、全員の署名がなくても、有罪の判決は有効であった。 有罪が告げられたガリレオは、地球が動くという説を放棄する旨が書かれた異端誓絶文を読み上げた。 ローマ ミネルヴァ修道院 1633年6月22日 故ヴィンツェンツォ・ガリレイの息子でありフィレンツェ在住、年齢70歳、この裁判所に召喚され、高貴なる枢機卿及びキリスト教世界全体の異端の罪を問う審問官の前にひざまずいております私、ことガリレオ・ガリレイが……検邪聖省により、世界の中心に不動であるのは、地球ではなく太陽であるという思想を信じ、説いているのは、強い異端の疑いがあると糾弾されました。 私は猊下及び、この説で私に不信を抱いた敬虔なキリスト教徒に対し、その強い疑いを晴らすことを望み、誠実かつ心よりの信仰をもって、前述の誤りと異端の教えを放棄し、嫌悪いたします……そして今後は決して、口頭でも著述でも、同様の疑いを抱かせることを表現しないことを誓います。 — ガリレオ・ガリレイ、『新科学対話』 その後につぶやいたとされる ()という言葉は有名であるが、状況から考えて発言したのは事実でないと考えられ、ガリレオの説を信奉する弟子らが後付けで加えた説が有力である。 また、「それでも地球は動く」はイタリア語ではなくで言った [ ]という説もある。 「それでも地球は動いている」とつぶやいたと言う逸話が出てくるのは、死後100年以上経ったに出版されたバレッティの著作『イタリアン・ライブラリー』で、「ガリレオは、地球は動いていると言ったために、6年間取り調べられ拷問にかけられた。 彼は自由になったとたん、空を見上げ地面を見下ろし、足を踏みならして、黙想にふけりながら、Eppur si m u ove つまり地球を指して、それでも動いていると言った」と書いているが、その出典は明らかでない。 裁判以後 [ ] ガリレオへの刑は無期刑であったが、直後に軟禁に減刑になった。 しかし、フィレンツェの自宅への帰宅は認められず、その後一生監視付きの邸宅に住まわされ、散歩のほかは外に出ることを禁じられた。 すべての役職は判決と同時に剥奪された。 『天文対話』はに載せられ、1822年まで撤回されなかった。 死後も名誉は回復されず、カトリック教徒として葬ることも許されなかった。 ガリレオの庇護者のトスカーナ大公は、ガリレオを異端者として葬るのは忍びないと考え、ローマ教皇の許可が下りるまでガリレオの葬儀を延期した。 しかし許可はこの時代には出ず、正式な許可に基づく埋葬は3月12日にフィレンツェので行われた。 裁判の影響 [ ] この後、ガリレオの著書はイタリアでは事実上発行できなくなったため、『新科学対話』は、ガリレオの原稿が何者かによって持ち出され、教国のオランダで勝手に印刷されたという設定で発行された。 フランスのは、 (タイトルは『世界論』などと訳されている)の原稿をほぼ書き終えていたが、1633年のガリレオ裁判の報を聞いて出版をためらったことを、『』(1637年刊)に記している。 当時のローマ教皇庁はイタリア外での権力はなかったため、イタリア外では影響はあまりなかった。 裁判の検証 [ ] この裁判には疑問が多いことから、19世紀後半から検証が行われた。 第1の大きな疑問は、の判決が2種類あり、内容がまったく逆であること、第2には、『天文対話』の発刊にはローマ教皇庁から正式の許可があったにもかかわらず、発刊をもって異端の理由とされたことである。 Giorgio di Santillanaらによれば、有罪の裁判記録そのものが、検邪聖省自身が偽造したものであった。 もちろんこれをただちに信じるわけにはいかないが、無罪の判決文が無効という証拠がいまだ見つからないことと、第2の理由もこれにより説明がつくことから、署名のない有罪の判決文は偽造であるという考えが強くなっている。 ただし、この1616年の有罪の判決文が偽造であるという説については、偽造した者が誰なのかいまだにわかっていないということもあり、ただちにこれを認めることはできないという主張がある。 このほか、次のような説もある。 そもそも、1616年の裁判は存在しない。 これは、当時ガリレオは告発も起訴もされていないということを根拠にしている。 この説に基づくと、ベラルミーノがガリレオを呼び出したのは、今度、地動説を禁止する布告が出るということをガリレオに伝えるためであった。 その後、ベラルミーノがガリレオを呼び出し、何らかの有罪判決を下したという噂が広まったため、困ったガリレオがベラルミーノに無罪の判決文(正確には、ガリレオは何の有罪の判決も受けていないという証明書)を作ってもらったという。 1616年の裁判の署名のない有罪の判決文(らしきもの)は、ベラルミーノが判決を言い渡したときに、同席した者がベラルミーノの口頭での発言を記述したもので、同席者がいたことはガリレオも認めている。 ただしこの説でも、記述した者の名が明らかでない。 また、担当判事の署名がない以上、有効な文書でないという事実にかわりはない。 1616年の裁判の署名のない有罪の判決文(らしきもの)は、裁判のなりゆきに合わせてあらかじめ用意されたもので、あとはベラルミーノの署名を書き足すだけで有効になるよう、先に作られていたものだった。 しかし、結局ガリレオは有罪とならなかったため、この文書にベラルミーノの署名はされなかった。 ただし文書はローマ教皇庁に残され、第2回の裁判で証拠とされた。 ガリレオ自身、敬虔なカトリック信徒でありながら、哲学や宗教論から科学を分離することを提唱し、教会の権威に基づいた科学的理論を否定していた。 これが結果的にはガリレオを異端者として扱う根拠になったとされる。 実際、ウルバヌス8世はガリレオを当初は支持していたが、ガリレオが研究を重ね宗教論に基づかない科学的理論を広めるようになると、掌を返したかのようにガリレオを非難するようになった。 ガリレオを有罪とするようにウルバヌス8世が直接命令を下したとも言われている。 ローマ教皇庁の対応 [ ] にローマ教皇がこの裁判に言及したことを発端に、裁判の見直しが始まった。 最終的に、ローマ教皇は、ガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレオに謝罪した。 ガリレオの死去から実に350年後のことである。 9月、ローマ教皇庁教理聖省(以前の異端審問所)のアンジェロ・アマート大司教(Angelo Amato)は、ウルバヌス8世はガリレオを迫害しなかったという主張を行った。 1月16日の『』によると、が17日にイタリア国立での記念講演を予定していたが、1990年の枢機卿時代にオーストリア人哲学者の言葉を引用して、ガリレオを有罪にした裁判を「公正だった」と発言したことに学内で批判が高まり、講演が中止になった。 その後ベネディクト16世は2008年12月21日に行われた、やが定めた「2009」に関連した説教で、ガリレオらの業績を称え、を改めて公式に認めている。 その他 [ ] ガリレオの文章の評価• 作家は、『なぜ古典を読むのか』『カルヴィーノの文学講義 - 新たな千年紀のための六つのメモ』で、文章の文体を賞賛し、ガリレオを文人(詩人)としてとらえている。 ガリレオをしのぶ作品や博物館• (作品)ドイツの作家は1947年に、戯曲『』(訳、)を書いた。 『戯曲ガリレオ 英語版』(笠啓一訳、績文堂出版、2009年)もある。 (博物館)フィレンツェにはがあり、ガリレオの残したノート類やガリレオが用いたさまざまな道具の実物などが展示されている。 紙幣で肖像を使用 イタリアでは、からまで発行されていた2,000紙幣にガリレオの肖像が採用されていた。 おもな著書 [ ]• 『』( Sidereus Nuncius 1610年) ・訳、 伊藤和行訳、講談社学術文庫、2017年。 『太陽黒点論』(1613年) 上記の岩波版に併録、訳名は「太陽黒点に関する第二書簡」。 『贋金鑑識官』(1623年) 山田慶兒・谷泰訳 『 ガリレオ』/(新版)、2009年• 『天文対話』もしくは『二大世界体系にかんする対話』(1632年) 訳、岩波文庫(上下)• 『 ()』(1638年) 『静力学について ガリレオ・ガリレイの「二つの新科学対話」』 加藤勉訳、、2007年• 『レ・メカニケ』(執筆:1599年頃、仏訳出版:1634年、原本出版:1649年) 解説・訳 『世界の名著 ガリレオ』中央公論社 脚注 [ ] 注釈 [ ] []• ただし、本当に誠実なやりかたでデータをとったのかどうか、という点に関しては怪しい点があるらしい。 つまり自分の説・仮説に合うようにデータをいじっていたらしいとブロードやウェイドによって指摘されている。 つまり「自然科学の父」と呼ばれるような人がすでに、現代で言う「」に相当するようなことを行っていたのであり、不正行為の問題が20世紀になってにわかに始まったかのような印象を持つのは適切ではなく、実は自然科学はつきつめればその父(開拓者)まで腐っているような、かなり根深い問題だとブロードやウェイドは指摘しているのである。 (出典:W. ブロード, N. ウェイド『』講談社、2006)• イタリアのたち同士の激しい争いや、そうした貴族の中から選ばれる、極めてきわどい立場のの思惑など、ドロドロの権力争いや様々な。 も同様の考えを持っており、最初に mareと命名した。 p61によれば、現代の伝記作者の多くは、この実験は伝説だと考えているが、ドレイクは真実だとしているという。 また、佐藤 2000 は、ガリレオがピサ大学時代に行った、ということにしている。 マクラクラン 2007 は、『新科学対話』の記述から、少なくとも1回は実験を行ったと述べている。 一方、この実験が行われていないという主張を広めたのはアレクサンドル・コイレである(コイレ 1988 pp. 466-467)。 20-22も、ヴィヴィアーニの記述は真実ではないとしている。 結果としてそれは1664年に出版された。 p222,259,260によれば、偽造したものだと唱える人物として、ヴォールヴィル Wohlwill やベレッタ Beretta がいる。 ファントリ自身は、この文書は真正なものだとしている。 当該説教の日本語翻訳文が、教皇関連ページのに掲載されている。 出典 [ ]• 小学館『』 ニッポニカ 、「ガリレイ」• なお、「近代科学の父」と呼ばれるのはガリレオだけではなく、他にももそう呼ばれることがある。 p78• 『数学と理科の法則・定理集』アントレックス(発行)図書印刷株式会社(印刷)154頁• 1『数学と理科の法則・定理集』アントレックス(発行)図書印刷株式会社(印刷)55頁• p24• p24• p64• p54• p61• 最新天文百科 宇宙・惑星・生命をつなぐサイエンス HORIZONS Exploring the Universe p65• p69• p42• p51など• p35• 『すごい物理学講義』河出文庫、2019年、P. 234。 26-27• p74• 32-33• p120• p122• p122~123• p123~124• p124• 337-338,343• p160• 340-341• 217-218• p116• p160• p245• p423• 189-190• p255• p481• p450• ガブリエル・ウォーカー『大気の海 なぜ風は吹き、生命が地球に満ちたのか』渡会圭子訳、、東京都、2008年、20頁。 Crew and A. de Salvio New York : Macmillan,1914。 原題は Discorsi e dimostrazioni matematiche intorno a due nuove scienze. 『新科学対話』,ガリレオ・ガリレイ著,今野武雄,日田節次 訳,岩波書店,1937 から参照した。 346,文献中注釈第1章2 参照• p99• p257• 田中一郎 2015-1020. ガリレオ裁判-400年後の真実. 岩波書店. 206. p257• 499-500• p264• 229-231• p506• 143-144• 『なぜ古典を読むのか』訳、、2012年4月5日。 『カルヴィーノの文学講義 - 新たな千年紀のための六つのメモ』訳、、1999年4月。 参考文献 [ ]• 青木靖三『ガリレオ・ガリレイ』、1965年。 佐藤満彦『ガリレオの求職活動 ニュートンの家計簿』、2000年。 W・シーア、M・アルティガス『ローマのガリレオ 天才の栄光と破滅』、柴田知薫子訳、大月書店、2005年。 アンニバレ・ファントリ『ガリレオ コペルニクス説のために、教会のために』大谷啓治監修、須藤和夫訳、、2010年。 ジェームズ・マクラクラン『ガリレオ・ガリレイ 宗教と科学のはざまで(オックスフォード科学の肖像)』野本陽代訳、、2007年。 『学習漫画 世界の伝記 〔26〕 ガリレオ・ガリレイ』、1992年。 責任編集『世界の名著26 ガリレオ』、1995年。 『物理学読本』、1981年、第2。 伝記・研究文献 [ ]• 『ガリレオの弁明』訳、、2002年。 スティルマン・ドレイク『ガリレオの生涯 1』田中一郎訳、、1984年。 スティルマン・ドレイク『ガリレオの生涯 2』田中一郎訳、、1984-85。 スティルマン・ドレイク『ガリレオの生涯 3』田中一郎訳、、1984-85。 田中一郎『ガリレオ 庇護者たちの網のなかで』、1995年。 高橋憲一『ガリレオの迷宮 自然は数学の言語で書かれているか? 』、2006年。 『人類の知的遺産31 ガリレオ』、1985年。 著作の訳が一部ある。 『ガリレオ研究』菅谷暁訳、〈叢書ウニベルシタス〉、1988年。 ジャン=ピエール・モーリ『140 ガリレオ はじめて「宇宙」を見た男』田中一郎監修、遠藤ゆかり訳、、2008年。 デーヴァ・ソベル『ガリレオの娘 科学と信仰と愛についての父への手紙』田中一郎監修、田中勝彦訳、、2002年。 アルフレッド・エンゲルベルトヴィッチ・シテクリ『ガリレオの生涯』松野武訳、東京図書、1977(新版1986)。 関連項目 [ ]• - 実験で有名な、ガリレオの晩年の弟子• - ガリレイの名を冠したピサの空港• 外部リンク [ ] イタリア語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。

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ガリレオ・ガリレイ|地動説,宗教裁判,科学革命

地動 説 ガリレオ

**************************************** ガリレオ・ガリレイ ガリレオ・ガリレイと地動説 (文・祖田 浩一 絵・山本 耀也) ローマ教会は、地動説を捨てるようにと、せまってきた。 疲れはてたガリレイは、ついに地動説を捨てた。 だが心の中ではつぶやいた。 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 ガリレイ写真集 ガリレイ 「振子の原理」や「落下の法則」の発見、惑星の観測による 天文学上の発見や地動説の確認など、すぐれた業績によって 近代科学のまくをひらき、「自然科学の父」とたたえられている。 上=「大きくみえる」 はじめて望遠鏡をのぞく ベネチア政府の役人たちのおどろき。 左下=ピサの斜塔 この塔の上から、大小個の球を おとして実験したといわれる。 右下=ガリレイの天体望遠鏡 ガリレイはつぎつぎと 惑星の神秘をあかした。 「それでも地球は動く」 地動説を確信するガリレイへの圧力は厳しかった。 宗教裁判の結果、 自分の説を捨てることを強いられたガリレイは、「それでも地球は動く」とつぶやいた。 1 ピサで生まれる 偉大な天才、自然科学の父とよばれるガリレオ・ガリレイは、一五六四年に生まれた。 ところは、イタリアのフィレンツェから西へ五〇キロメートルほどはなれた、ピサの町である。 父は呉服商人であったが、音楽に強い関心をもっていて、仕事のかたわら、『古代音楽と現代音楽についての対話』という本を書いたほどの人である。 母は、ジュリア・アマナチといい、気性の激しい女だった。 イタリアは、当時、フィレンツェ共和国、ベネチア共和国、ナポリ王国というように、いくつもの国にわかれていた。 フィレンツェは、フィレンツェ共和国の首部であり、ルネサンス (文芸復興)という文化運動のおこった都で、文化水準が高く、商業などの面でも特別な繁栄ぶりをみせていた。 この共和国を支配している領主は、トスカナ大公といった。 フイレンツェというのは、「花の都」という意味で、ガリレイの生まれる前には、レオナルド・ダ・ビンチやミケランジェロなどが、活躍していたところである。 ガリレイ自身は数学が好きだったが、母親に反対されて修道院では論理学を勉強した。 ピサの町なみ ガリレイは、イタリアのピサでうまれた。 筆者の私も、以前にフィレンツェをおとずれ、ガリレイやミケランジェロの墓のある、サンタ・クローチェ教会などをたずねた。 絶大な力と富によって、かってこの町を支配していたメジチ家にまつわる宮殿や、たくさんの美術館や教会があって、町全体がひとつの博物館のようになっている、すばらしいところであった。 ガリレイが生まれると、父はまもなくフィレンツェにもどったが、ガリレイは母たちとそのままピサに残っていた。 ガリレイがフィレンツェにうつり、父と一緒に住むようになったのは、十才になってからである。 ガリレイの下には、二人の妹と一人の弟がいた。 2 大学を中途でやめる ガリレイは、父から勉強の初歩のところを教えられた。 その後、フィレンツェから一八キロほどはなれている、バロンブローサの修道院にいれられた。 聖マリア修道院とよばれるところで、ガリレイは、しばらくここでょみかきをならった。 学校にいくように、毎日通っていくのではなく、両親とはなれて修道院でくらすのである。 昼も夜も、ほかの子供たちと一緒に共同生活をしたのであった。 ガリレイは、ここで目をわるくした。 原因はどういうことであったかはっきりしないが、父は目をなおすために家につれもどし、それ以後は修道院にはあずけなかった。 二年ばかり家にいたのち、ピサの大学にはいった。 その頃、大学にいく者はごくすくなかった。 また成績がよくなくて奨学金がうちきられ、退学したともいわれる。 この大学には法学部と医学部とがあり、ガリレイは医学部にはいった。 いまの日本の大学も同じであるが、どの学部であろうと、はじめは一般教養の学科を勉強しなければならない。 ガリレイのころの一般教養の学科は、算術・幾何学・天文学・音楽・文法・修辞法 (しゅうじほう=言葉の正しく美しい使い方)・弁証法 (べんしょうほう=物の考えかた)の七つであった。 ガリレイは、このような学科をまなんでいることがなんともつまらなくて、授業に出なくなった。 それよりも、機械とか、技術とか建築といったことに、関心があった。 授業はおもしろくないので出ず、まるで勉強ぎらいのような毎日をすごしていた。 授業に出なければ、上に進むことはできない。 医者になるための資格はとれるはずもなく、とうとう途中でやめてしまった。 「なんて、頼りにならない子なんだろう」 と、母は嘆いた。 父は自分は洋服屋をやっていても、息子は医者にしようと、頑張ってはたらいていただけに、すさまじい怒りをみせた。 「ごくつぶしめ! 親をだましとって、これから一体、どうしようというのだ」 ガリレイも返事にこまってしまった。 自分でも、一体どんな職業が一番むいているのか、わからなかったのである。 3 数学に興味をおぼえる 父の友人に、オスチリオ・リッチという人がいた。 リッチは数学者で、トスカナ大公に仕えていた。 ガリレイはあるとき、大学にいたころの本をめくっていて、解けそうでどうしても解けない数学の問題にぶつかった。 解けないので、しまいにはイライラしてきた。 そのとき、ふとリッチのことをおもいだした。 父に黙って、その問題をもってリッチをたずねていった。 リッチは、簡単に解いてみせたので、ガリレイはすっかり感心した。 これが縁となって、しばらくリッチのところに通い、数学をまなぶようになった。 ガリレイはリッチから数学のおもしろさを教えられ、しだいにとり疲れたようになった。 リッチの導き方が、じょうずだったのかもしれない。 ガリレイは、リ四千から多くのものをまなび、強い影響をうけた。 ガリレイはむずかしい問題にいどみ、苦しみながらもそれを解いていくことに、たまらない喜びをおぼえ、すぐれた才能を発揮するようになった。 やがてガリレイは、科学について二つの論文を書き、学者からほめられて、注目をあびることになった。 自分の進むべき道がようやくみつかったようにおもい、胸をふくらませた。 ガリレイは、はじめてローマに旅をして、ローマで有名な数学者で、また天文学者でもあるクラビウスをたずねた。 クラビウスは、 「その若さで、これだけの才能をみせているのだから、きっとすぐれた科学者になれる。 これまで、あなたのような、すばらしい頭脳をもった人にあったことはない」 といって、今後も勉強をかさねるようにと、はげました。 ガリレイは、大学の教授になりたいと考え、フィレンツェで大学の方面に力をもっている人のところに頼みにいった。 はじめ、ボローニアの大学に推薦してくれる人がいたが、これは実現しなかった。 しかし、すぐにピサの大学につとめる話があって、一五八九年、ピサ大学の数学の講師になることができた。 それでもめぐまれたほうで、しかも3年契約だったから、生活もようやく安定することになった。 それでも大学の講師の職につけたということで、父や母を安心させることができた。 ガリレイを変人 (変り者)のようにみていたまわりの人たちも、これでようやく納得したのである。 4 ピサの斜塔 ガリレイは、物の動くこと、物の運動ということに、はやくから関心をもっていた。 ピサといえば、斜めに傾いた塔のある地として知られている。 この斜塔は、教会の鐘をつる塔である。 一一七三年に工事がはじめられたが、地盤が沈んで斜めに傾いた。 いったん工事を中止し、たおれそうにないことを確かめて、再び工事にかかり、一三五〇年に完成したものである。 高さは、塔の北側が五五・二二メートル、南側が五四・五二メートルで、その差は七〇センチある。 それだけ傾いているということである。 「重さはちがっても、同じ物体、つまり、鉄なら鉄、木なら本であれば、同じはやさでおちる」 ということを発見した。 現在ではさらに、 「空気の柢抗のないところ (真空中)では、物体の重さや種類に関係なく、同じ時間でおちる」 ということがわかっている (落下の法則)。 三年後の一五九二年九月、ガリレイはベネチア共和国にあるパドバ大学にうつった。 振子が往復する時間は、振子の重さや、その振れ幅ではなく、振子の長さによってきまるというもの。 振子の長さが長いほど遅くなる。 ピサの斜塔 ピサ本寺の塔で、 ピサのシンボルとなっている。 ここでは十八年間つとめることになるが、その間に父が亡くなった。 一家の家計はガリレイが支えなければならなかったので、大学教授のほかに家庭教師をやったり、教科書を書いてお金を得たりした。 機械づくりのできる職人をやとい、機械や器具をつくって売ったりもした。 また、自分の家のいくつかの部屋を学生たちにかして、下宿屋もかねた。 いつも一五人から二〇人くらいの学生かおり、これらの学生に家庭教師をすることもあった。 それほどまでして、ガリレイがお金をかせがなければ、一家はやっていけなかったのである。 5 コペルニクスの説 古代から中世にかけての人々は、地球は動かないで、太陽のほうが地球の周りを回っているのだと、考えていた。 ギリシアの天文学者プトレマイオスも、同じように、 「地球が宇宙の中心である」と、考えていた。 ところが、ポーランドの天文学者のコペルニクスが、一五四三年に『天体の回転について』という本を書いて、 「太陽は動かないで、地球のほうが太陽の周りを回っている」 と、まるでぎゃくのことを言い出した。 地球が一日に一回転しながら、一年に一回、太陽の周りを回り、月はたえず地球の周りを回っているということを、いまの私たちは知っている。 神学・哲学・数学・天文学にすぐれ、地球は球形で、自転しながら太陽のまわりを公転すると発表し、近代天文学の基礎をきずいた。 コペルニクス 天動説を疑い、地球が太陽の周りを回るという説を、初めてとなえた。 人々は太陽が朝、東からのぼり、西に沈んでいくのを毎日みていて、太陽のほうが動いていることを疑おうとしなかった。 それにたいしてコペルニクスは、自分たちがいま立っている、この大地の方が動いているのだといったので、おかしなことをいう奴だと、バカにされた。 「地球が動いているというなら、我々は、そのことをどうやって知ることができるのか?」 と、問う者がいた。 「乗り物にのっていると、回りの風景がうしろに動いていくようにみえる。 あれと全く同じで、太陽や月が天空を動いていくようにみえるのは、地球が動いているからである」 「この大地が動いているなら、我々は、こうして立っていられないはずだ。 みな倒れてしまうか、ふきとばされてしまうはずではないか」 「気がつかないくらいゆっくり動いていれば、立っていられる」 コペルニクスがこのようにいっても、人々は簡単に納得しなかった。 地動説の説明 コペルニクスの自筆の原稿で、 太陽を中心にしてまわる惑星がえがかれている。 6 火あぶりにされたブルーノ ガリレイの主張することと深い関係があるので、ブルーノという人のことも、さきに述べておかねばならない。 ジョルダーノ・ブルーノは、ドミニコ派の修道士である。 教会でさまざまのことを学んだが、教会の教えに疑問をいだくようになり、そのことを次々と口にしたので、とうとうイタリアにいられなくなった。 その頃、教会は大きな力をもっており、聖書に書いてあることとちがっだことを主張する者は、教会から処罰されることになっていた。 ブルーノは、 「コペルニクスの説が正しい」 と熱心に主張したので、教会の幹部たちはおこった。 アリストテレスの哲学から出発したが、コペルクスの地動説、ルターの宗教改革に賛成して教会を追放され、のち処刑された。 ブルーノ コペルニクスの 地動説を支持し、火刑にされた。 ブルーノは、スイス、フランス、イギリス、ドイツと逃げ回っていた。 ブルーノのいったことは、つぎのようなことである。 「『地球は宇宙の中心である』というこれ果ての説は間違っている。 宇宙は無限のひろがりをもっていて、宇宙には太陽だけ、でなく、たくさんの恒星がある。 それらは生き物のように、自由に動いている。 恒星も太陽と同じであって、天空にはたくさんの太陽がある。 宇宙は神がつくったものであるから、神の力にかぎりがないように、宇宙の広さもまたかぎりがない。 太陽もひとつの恒星であるが、同じように地球も一つの惑星である」 教会の幹部はおこり、なんとしてもブルーノをとらえようと、やっきになった。 追っ手はいつかブルーノにせまり、ついにとらえられた。 天文学者の研究室 天球儀がおかれた部屋で、 学者が計算にふけっている。 16世紀のさし絵より。 そのあと、コペルニクスの地動説を、あちこちで「正しい」といった罪によって、ブルーノは一六〇〇年二月十七日、ローマの広場で火あぶりの刑にかけられて 殺された。 聖書とちがうことを主張すれば、これほど重い罪になるという、みせしめでもあった。 人々はおそろしさにふるえあがった。 ブルーノはキリストの教えを説く修道士であったが、ガリレイは天文学者であって、もっと科学的な根拠にもとづいて主張したのである。 7 望遠鏡をつくる その頃オランダ、で望遠鏡がつくられた。 望遠鏡でものをみると、 「遠くにあるものを、手にとるように近くにみることができる」 といううわさが、ガリレイの耳にはいった。 やがて、フランスでも同じょうな望遠鏡がつくられ、人々の関心を集めた。 イタリアにもはいってきたので、ガリレイは手にとってみることができた。 「レンズさえあれば、自分で、もっとよいのがつくれる」と、思った。 ガリレイは、すぐに望遠鏡の製作にとりかかった。 凹レンズと凸レンズを筒のはしにとりつけ、ひとつの筒をもうひとつの筒のなかにいれて、自在に動くようにした。 長さは六〇センチぐらいのものである。 これを目にあてて、遠くのものをながめると、三倍ぐらい大きくなってみえた。 ガリレイは喜んで友人をさそい、ベネチアで一番大きな寺院である、サン・マルコ寺院の鐘楼 (しょうろう=鐘つき堂)にのぼった。 上から望遠鏡をベネチアの町にむけ、友人にものぞかせた。 友人は遠くの人々の動きまで、はっきりみることができることにおどろいて、声をあげた。 ガリレイはつぎにレンズをとりかえ、九〇〇メートル先のものを、一〇〇メートルくらいの近さにみることのできる望遠鏡をつくり、これをパドバ大学におくった。 ガリレイは、さらに改良をくわえて、より遠くまでみることのできる望遠鏡をつくり、月や星を観測した。 同時に、いくつもの望遠鏡をつくって、人々に売ることもした。 望遠鏡はオランダやフランスでさきにつくられていたので、ガリレイがはじめてつくったものではなかったけれども、イタリアではガリレイが発明したかのように、もてはやされた。 ガリレイの天体望遠鏡 自分でつくり、天体の観測につかったもの。 フイレンツェ科学博物館蔵 8 宇宙の新発見 ガリレイの月のスケッチ 月の山や谷を、はっきりとらえている。 月の表面 アポロ宇宙船がとらえた月の表面。 ガリレイの説の正しさを証明している。 ガリレイは遠くのものが三〇倍にみえる望遠鏡をつくり、月や太陽や木星を観測した。 この「円形演技場」は、こんにちでいうクレーターである。 ガリレイは望遠鏡でみて、 「月には山や谷があり、地球の表面とにている。 ウサギがもちをついているようなもようは、山や谷である」と、いった。 「新月のころ、月のくらい部分が、わずかに赤黒くみえるのは、太陽光線が地球に反射してできたものである」ということも言い出した。 ガリレイは月以外の星も観測し、つぎのことをつきとめた。 保護者のコジモ二世の援助によって、将来の天文学の基礎ができた。 今、木星の周りを回っている星は全部で一六あることがわかっているが、ガリレイはそのうちの四つを発見したのである。 「木星は、太陽の周りを回っている。 四つの星は木星の周りを回りながら、太陽の周りを回っている」 ガリレイは、この発見にこおどりしてよろこんだ。 その反響は大きかった。 人々は大きな衝撃をうけた。 ガリレイはこれらの発見をとおして、 「コペルニクスの地動説は正しい」と、いった。 イタリアだけでなくヨーロッパのすべての国々で、人々はガリレイの『星界の報告』という本と、望遠鏡をきそってもとめた。 ガリレイの名声はきゅうに高まり、その業績をほめたたえる者はふえた。 しかし一方で、地球があらゆる天体の中心であるという、これまでの説を信じて疑わない人々によって、ガリレイは非難され、攻撃された。 「ガリレイのいっていることは、まやかしである。 望遠鏡をたくさん売って、金もうけしようとしているだけなんだ」 と、いう者もいた。 この年、ガリレイは四十六才になっていた。 トスカナ大公によって、ピサ大学の特別数学者にしてもらったからである。 同時に、トスカナ大公にも仕えるよう命じられた。 フィレンツェの新しい家には、高いテラス (張り出したところ)があって、夜、そこから望遠鏡を天空にむけ、観測がしやすいようになっていた。 土星の両側には、一つずつのこぶがあるようにみえる。 地球は365日で太陽のまわりを一周するのにたいし、土星は29年と167日もかかる。 土星の環は、氷のつぶなどがあつまったもの。 そこで、ガリレイは、 「土星は、三つの星からできているようだ」 と、いった。 これは、のちにべつの人たちによって、こぶにみえるのはじつは土星の環であることが、明らかにされた。 ガリレイはこのように、すこしずつ星の世界の研究を前進させていった。 天体望遠鏡がとらえた木星と衛星 木星の右上に衛星、木星の上部に衛星の かげ 黒いまる がある。 パドバ大学でのガリレイ 上が天体観測、下が講義のようす。 地球からみたときに、光ってみえるのは、その星が光をだしているのではなく、太陽の光を反射しているのである。 惑星は、太陽の周りを回る星で、水星・金星・地球・火星・木星・土星・天王星・海王星・冥王星がある。 ガリレイは、このように考えるようになった。 太陽の変化は、20世紀になってようやく解明される。 ガリレイは、 「あれは地球上の雲に似たようなもので、太陽がたえず生み出しており、その場で消えているものだ」 と、いった。 ほかの者は、 「ちがう。 あの黒点は、太陽の周りを回っている星のかげである」 と反論した。 土星の環 ガリレイの予言から45年後に、 土星に環があることが確認された。 パロマ・アンド・ウィルソン天文台提供 太陽の黒点 温度がまわりより低いので、 黒いしみのようにみえる。 大きいものは、 地球の直径の数倍ほどにもなる。 これもやはりガリレイのいったことが、事実により近かったのである。 「金星は、月と同じようにみちたり、かけたりする」 ということも、言い出した。 ガリレイはほかに温度計を考えてつくりだし、友人たちをおどろかせた。 また、ものが水に浮いたり、沈んだりするのは、どうしてだろうということに疑問をもち、その研究をつづけて、ほかの学者と議論をはじめた。 10 聖書とちがっている! ガリレイは、これまで考えられていた宇宙のことで、間違っていることをあらためようとした。 「科学的な根拠さえあれば、正しいにきまっている。 正しいことを述べて、悪いはずがない」と、思っていた。 ところが、その頃のヨーロッザては、キリスト教の教えがもっとも正しいとされており、人間の考え方や行いは、すべてキリスト教の教えに従わねばならないことになっていた。 「聖書は、なににもまして一番とうとく、間違ったことなど書いてあるはずがない」 と、考えられていたのである。 アリストテレスの学問をキリスト教の教義にあわせ、その論を科学的にはとらえずに、ただ教義にしたがって注釈するだけの学者たち。 「ガリレイのいうことは、聖書に書いてあることと食い違っている。 人々をまどわすために、あのようなことを、かしこそうにいいふらしているのは、けしからぬ」 と、口々に非難し、攻撃しだした。 ガリレイもカトリックに属していたが、 「科学のことは宗教の教えとは、ちがっていてもよいではないか。 宗教は宗教、科学は科学、それぞれべつの真実があってもよいではないか」 と、思ったのである。 ところが、宗教は世のなかを支配していくうえで、考えかたの大切なよりどころであったから、 「宗教と食い違うことは、悪である。 ゆるすわけにはいかない」 と、教会の幹部たちが声を大にしていいたしたのである。 ガリレイは、すっかり腹をたてた。 「そんなむちゃなことがあってたまるものか。 聖書にどんなことが書いてあろうと、科学の研究や宇宙の発見はべつであるべきだ。 聖書をひきあいにだして、新しい研究や世の中の進歩を邪魔するようでは、ひどすぎる」 と、ガリレイはいった。 しかし、教会ではガリレイのいうことを、こっぱみじんにうちくだいた。 なかには、 「ガリレイの発見にもとづいての発言は正しいが、聖書と食い違っているから困るだけなのだ」 と、いう者もいた。 これにたいし、 「科学における真実と、神の教えである真実と、二つの真実があるはずはない。 ガリレイのいっていることは、まやかしにちがいない」 と、あくまでもガリレイの主張することを、間違いであるときめつける者もいた。 椅子にすわるガリレイ 教会の攻撃は、いよいよきびしくなり、 ガリレイは友人の別荘で思案にふけった。 それが世のなかに混乱をおこさせない、もっともよい方法である」 と述べ、ガリレイにたいして、激しいののしりの言葉をあびせた。 このため、ガリレイも星うらない師として攻撃された。 ローマではガリレイを裁判にかけて、罪人にしてしまおうという動きがおこり、着々とその手はずが整えられていった。 ガリレイの耳にも、そのことは伝わってきたので、 「ローマにいって、自分のいっていることを誤解し、間違って受取っている人にたいして、もっとくわしく説明したい」 と、思った。 ガリレイは三十才ごろから、季節のかわり目になると、体のいたむ病気にかかり、ずっとそれに苦しむようになっていた。 リューマチか痛風だったろうと考えられるが、ローマにいかねばならなくなったときも、ちょうどこの病気で苦しんでいた。 それでもガリレイは、病をおしてローマにたった。 検邪聖省 (けんじゃせいしょう=裁判所のような役所)の役人や、異端審問官 (いたんしんもんかん=検察官のような役人)によって、 「ガリレイが、どのように悪いことをいったか」という証拠が集められていた。 そのなかで、一番に問題とされたのは、 「世界の中心は地球ではなく、太陽である。 地球は動いていて、太陽の周りを回っている」 ということであった。 ほかの発言もよくはないが、一番いけないのはこのことであった。 ガリレイは、ローマの教会幹部や有力者のところを一軒ずつたずねてまわり、自分の考えをあらためて述べ、説明してまわった。 古い説をもちだす者とは、時間をつかって議論し、証拠をならべて相手をうち負かした。 ガリレイはいく日も、このようにしてローマの町をあるきまわった。 学者たちの集りがあると出席して、説明をくりかえした。 聖職者と議論するガリレイ ガリレイは魅力に とんだ人物として、みなから愛された。 さんざん けなされた論敵も、かえってひきつけられたという。 12 第一回目の裁判 ガリレイが前もって説明してまわったりしたことは、何の役にもたっていなかった。 一六一六年二月二十四日、検邪聖省は判決をくだした。 「太陽が世界の中心にあって動かず、地球が動く。 しかも地球は一日に一回転するということは間違った考えである。 聖書に書いてあることと食い違うし、神を信ずる立場からみて、これは誤りである。 ガリレイに、このような考えを捨てるようにめいずる。 もし、ガリレイがこれに従わないなら、牢獄につなぐことにする」 ガリレイは二日後の二十六日によびだされて、ベルラルミーノ枢機卿 (すうききょう=ローマ教皇の最高顧問)から判決の内容をきかされた。 「ただちに太陽が世界の中心であって、地球が動いているという考えを捨てなさい。 その事を人々にむかって話してはいけないし、本に書いたりしてもいけない。 胸のうちからきれいに捨てなさい。 これは教皇閣下と検邪聖省の命令です」 と、ベルラルミーノはいった。 ガリレイは予想と大きくちがったので、とまどいをおぼえ、言葉が出なかった。 プトレマイオス 古代ギリシアの科学者 の天動説 地球を中心に、月、水星、金星、太陽、…… の順ならぶ。 13 問題となった『天文対話』 ガリレイはひどくみじめな気持ちで、 フィレンツェに帰った。 このため、1618年秋に地球に接近し、ヨーロッパじゅうを不安におとしいれた、彗星についてのガリレイの発言はない。 「こんなことで負けてはいけない。 このまま、泣き寝入りしてはいけない」 ガリレイは自分を攻撃した者たちに、反撃しなければ気がすまなくなった。 そして、病気とたたかいながら、長い年月をかけて『 天文対話』という本を書き上げた。 ガリレイはこれを出版するために、ローマの教皇庁やフイレンツェの異端審問官のところにいき、許可を得て、一六三二年二月に出版した。 この本はすぐに人々の関心を集め、評判をよんだ。 フイレンツェの町 ガリレイは、地動説をすてるという つらい約束をさせられてフイレンツェにもどった。 イタリアばかりでなく、ヨーロッパのどの国でも売りさばかれ、大きな反響をよんだ。 内容をほめたたえる者と、反感からけなす者と、両方からたくさんの手紙がガリレイのところにきた。 「このような本がかかれたのは、地球上に人間が生まれてから、はじめてである」 といって、ほめあげる者もいた。 弟子のカステリは、 「おどろきと喜びで、頭から足の先まで震えがおき、しばらくとまらなかった」 と、手紙に書いておくった。 「この本は、新しい世界、新しい時代のはじまりを教えている。 人間の考えだしたことで、これだけ価値のあるものは、これまでになかった」 と、いう者もいた。 この新しい役人はガリレイの本について、 「これはけしからぬことがたくさん書いてある。 ただちに禁止すべきである。 本を差出さえ、どの地方にもおくったりしないようにせよ」 と、命令をだした。 『天文対話』のとびら絵 左から、アリストテレス、 プトレマイオス、コペルニクス。 ガリレイは、 「前もって内容をよんでもらい、許可を得て出版したではありませんか」 といったが、教皇庁はそんな言葉を聞き入れようとしなかった。 14 第二回目の裁判 一六三二年十月一日、ガリレイは異端審問官から、裁判のためローマに出頭するように命じられた。 ガリレイは、こんなことになるとは思っていなかったので、腹だたしさをおぼえた。 しかし、「いかない」と、言い張ることはできなかった。 頭は混乱した。 これまでのかがやかしい名声が、だいなしになるように思われた。 ガリレイは、あの本を世にだしたことを後悔した。 しかし、もう取返しはつかなかった。 すでに六十八才になっており、年をとっているうえに、いつもの病気が出ていて、とてもローマまでいく元気はなかった。 「ローマいきは勘弁してもらいたい。 フイレンツェで裁判をしていただくわけには、いかないでしょうか」 と願い出たが、許されなかった。 宇宙ははてしないものだ 1500年ごろにつくられた木版画。 ガリレイは裁判のことが心配のあまり、夜ねむれなくなり、たびたびめまいをおこすようになった。 翌年の一六三三年一月二十日、ガリレイはかごにのって旅だち、二月十三日にローマについた。 裁判がおわるまで牢獄にいれられるのがきまりであったが、ニッコリーニ大使がそれだけは勘弁してくれるようにと、ガリレイにかわって頼んでくれた。 そのため、検邪聖省のなかに泊ることになり、部屋に鍵はかけないことになったが、はっきりと犯罪者扱いであった。 尋問 (じんもん=取調べ)は四月十二日からはじまり、六月二十一日まで三回にわたって行われた。 ガリレイは以前の裁判で、「太陽が世界の中心にあって動かず、地球が動いている」という考えをすべて捨て、このことを人に話したり、書いたりしないことを命じられ、その命令に従うことを約束していた。 それにもかかわらず、今度『天文対話』を書いて、その約束を破った。 それがうったえられる原因となったことは、明らかであった。 第一番に、今度の本の内容が、やはり聖書に書いてあることを、傷つけるものかどうかが議論された。 ガリレイは、 「許可をうけてから、出版しました」と、くりかえしいった。 異端審問をうけるガリレイ 教会の圧迫に、 ついにガリレイは地動説を捨てると誓ったが…。 「そうです。 その事はいいませんでした」 「どうしていわなかったのか?」 「内容が、その事にふれるとおもわなかったからです」 「それは、ずるいではないか」 15 それでも地球は動いている 裁判官は、一回目の尋問がおわったあとの四月二十七日夜、ガリレイにあっていった。 「裁判が長びけば、あなたを拷問にかけざるをえない」 と、おどした。 「なるべく強情をはらずに、今度の本において、以前に禁じられていたことを破り、誤りをおかしたことを、はやめに認めるほうがよい。 それが身のためである」 ともいった。 ガリレイはどうすべきか、苦しんだ。 気持ちが弱っていて、どうしてよいかわからなくなり、くじけそうになった。 しかし、闘志をかきたて、もう一度、 「あの本では、聖書を傷つけるような書き方はしていません。 よくよんでみていただけませんか」 と、抗弁書を書いてだした。 しかし、それは無視され、そのあと二度にわたって尋問をうけた。 六月二十二日、ガリレイはミネルバ修道院の大部屋によびだされ、判決をいいわたされた。 「前回は、教皇庁の命令に従うと約束したので許したが、今度、『天文対話』において再び禁じてあることを破った。 もし誓わないのならば、牢獄につなぐ」 ガリレイは青ざめた、疲れきった表情で、この判決をきいた。 「どうするか?」 「は、誤りを認めます」 「それでは、あの説を呪い、嫌うことを誓うか?」 「誓います」 「それでは獄につなぐことはゆるす。 しかし、三年の間、週に一回ずつ、聖書のなかにある言葉をとなえよ」 ガリレイはひざまずき、裁判官のみまもるなかで、声をあげて地動説をすて、その説を呪い、嫌うことを誓った。 のちの世になってから、ガリレイのいったことに誤りはなかったことが 証明された。 墓は市内のサンタ・クローチェ寺院にある。 この年、のちにガリレイの学問の正当性を証明したニュートンが、うまれている。 ガリレイの話をきく弟子 ガリレイはすでに目がみえなかった。 ****************************************.

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